きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む(後京極摂政前太政大臣)
京極は良経の住所である。以前摂政でここに住んでいた人があるので後京極といわれている。
特に和歌に関しては史上最高の歌人であったと思われる。勅撰集に収録された和歌は313首に上る。彼より上位には定家、俊成、為家、紀貫之がいるだけである。彼らは和歌で身を立てていた人物である。良経は、摂政という大役にありかつ38才で若死にしていることを加味すると、実力は第一人者であるともいえる。
良経がまだ若い頃、源義経が頼朝の怒りをうけて京都から逃げだした。この時、良経と同じ読みであるので「義彰」という名前で公式文書などで扱われている。摂関家の人物の方が偉いので武士(しかも犯罪者)が名前を変えさせられたというわけである。
彼は愚管抄などで未完の大器といわれている。38才での突然の死は、世間を驚かせた。また、父兼実の後継者として九條家のホープでもあった。彼が早世した為、摂関家の本流が九條家の系統に傾きかけたのが白紙となり、ついには5摂家時代につながった。
良経は和歌に優れた後鳥羽上皇にかわいがられて、土御門天皇の摂政となった。彼の死後、娘が順徳天皇に入内し、150年ぶりとなる摂関家の出の天皇(仲恭天皇)の母となっている。
良経は曲水の宴の準備中に就寝中になくなった。頓死である。いろいろな噂が立ったが、兄弟全て頓死しており、病死であろう。−噂の中には藤原定家が良経の才能をねたんで暗殺したなど変わったものもある−
百人一首の摂政達終わり
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